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世界遺産特集(14)ペルセポリス(イラン)

テヘランから飛行機で約1時間半南に移動したところにあるシーラーズという都市、そこから約55km離れたところにあの有名なペルセポリスがあります。世界遺産にも指定されているイラン屈指の遺跡であるペルセポリスをこれからご案内したいと思います。

遺跡マニアの間では、「ヨルダンのペトラ遺跡」、「シリアのパルミラ遺跡」とともに「中東の3P」と呼ばれているそうです。

ペルセポリスの遺跡に向かう前に、少しペルシャについて説明しておかないといけませんね。できるだけ簡単に説明したいと思います。詳しいことはガイドブックを読めばいいことです。

ペルシャ帝国という呼び名は、ギリシャとの戦争などで有名ですからご存知のことと思います。このペルシャ帝国の始まりはアケメネス朝で、紀元前550年にメディアという先住民を打ち倒して王国を作りました。イラン人はアーリア系の民族でこのときに現在のイランの南方に移住して来ました。ジグラットなどメソポタミア文明を担った民族とは違います。現在のイランを知るにはここを起点として歴史をたどればよいかと思います。

最初の王の名前をキュロス大王といいます。サイラスとも発音されます。この後、ダリウス、クセルクセス、アルタクセルクセスなど王が続き、ペルシャ帝国の繁栄をもたらしたのでした。ペルセポリスは紀元前512年にダリウス1世が建築に着手したもので、まさに計画都市と言えるでしょう。西はエジプト、東はインドまで勢力を及ぼしたペルシャ帝国の輝かしい歴史がペルセポリスの遺跡として残っているのです。

現在のイラン人のプライドが高いというのはこのペルシャ帝国から来ていると言えるでしょう。アケメネス朝は紀元前331年にアレキサンダー大王によって滅ぼされてしまいましたが、その後再びササン朝ペルシャとして復活しました。

2500年前ののペルセポリスの様子を描いた絵を紹介しておきます。引用文献:"PARSA PERSEPOLIS" by Werner Felix Dutz & Sylvia A. Matheson, YASSAVOLI
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★大階段
ペルセポリスに着くと最初にびっくりするのがその駐車場の大きさでしょうか。私は5月に1回と12月に2回行っていますが、どちらもほとんど観光客がいなかったですね。これほどの観光資源を眠らせているのは実にもったいない話です。

駐車場から見るペルセポリスはなんと言ったらいいのでしょうか。山を背景に作られた石作りの要塞とでも言いましょうか。入場券売り場から入口にある大階段まではかなり歩かないといけません。石畳の上を進むとやがて大階段に着きます。

大階段は左右対称で、111段あるそうです。折り返している二重の階段はかなりゆったりした傾斜をしています。当時馬に乗ったまま登ったからだと言います。階段は部分的に修復されていましたが、2500年も前の石がそのまま残っています。2000年前の遺跡と言うとローマのフォロロマーノが思い出されますが、ここはそれよりさらに500年も古い遺跡なのです。

私は階段を登りながら、当時の様子を頭の中に思い描いていました。属国となった外国から使者の一行が来て、代表者は馬でこの階段を登り、アケメネス朝の王様に謁見するのです。権力の象徴であるペルセポリスの当時はさぞかし豪華絢爛としたものだったでしょう。
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★万国の門
入口の大階段を登るとすぐ「万国の門」と呼ばれる門があります。これはクセルクセス王が建てたそうです。属国から来た使者たちはこの門を抜けて中の控えの間に進んでいったことでしょう。この門の装飾についている雄牛の顔は偶像崇拝を嫌うイスラム教徒によって破壊されてしまっています。

私はこの「万国の門」を見たときに映画の「ネバーエンディングストーリー」を思い出していました。旅人がゲートを通るシーンです。迷いだったか恐れだったか忘れてしまいましたが、弱い旅人はゲートにある彫像から出るビームで殺されてしまいました。私は映画のシーンでも見ているようなわくわくする気分でこの門を通過しました。

現在は石でできた柱あるいはその土台しか残っていませんが、昔は全体が大きな神殿だったそうです。屋根も天井もあったのです。多分木造なのでしょう、残念ながら現在それらを見ることはできません。
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出入口は反対側にもあり、そちらの方が保存状態がいいようです。こちらは人面獣神のようで、5本の足があると説明されました。

このペルセポリス、アッシリア風でもエジプト風でもなく、何風というのが不明だそうです。誰の意思でデザインされたのかは分かりませんが、ペルセポリスにはかなり独創的かつ全体として均質な巨大な創造物が造りだされていると言えます。外部からいろいろ取り込むのが得意なペルシャ人には珍しく、このペルセポリスに見られる独創性には驚かされます。

この門を過ぎ、しばらく進み右に折れると、百柱の間やアパダナ神殿へと続きます。
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★柱頭
ペルセポリスの遺跡を特徴づける柱頭についてです。一つは鷲の像、もう一つは雄牛の像です。どちらもデザイン化された美しい造形です。鷲の像はイラン航空のシンボルマークにも使われています。
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★アパダナ
アパダナは謁見の間であり、属国からの使者の謁見に使われていたと言われています。高さ20mの36本の柱によって支えられていたそうです。今は12本が原型をとどめているだけです。ここで 面白いのはレリーフなんですが、なかなかいい写真が撮れないのが残念なところです。23に及ぶ属国の使者がそれぞれの国の衣装で貢物を献上する様子が彫られています。今回紹介の絵は引用です。引用文献:"PARSA PERSEPOLIS" by Werner Felix Dutz & Sylvia A. Matheson, YASSAVOLI
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★タチャラ・パレス
アパダナの隣にあるダリウス一世の宮殿、これをタチャラ・パレスと呼んでいます。全体としてよく残っている遺跡と言えるでしょう。もちろん石造りの部分しか残っていませんけどね。このタチャラ・パレスは全体にこじんまりしたものです。

参考までに、ダリウス一世の碑文を紹介しましょう。ペルシャ人って賢かったんですよね。それがどうして現代では発展途上国の憂き目を見ているのでしょうか。

「これらがアフラマズダのお陰により、ペルシャ以外に手に入れられた国々である。余はこれらの国を統治した。これらの国々は余に貢物を持ってきた。これらの国々は、余が命令したように行動した。余の法律-これらの国々をしっかりと捕らえては離さぬもの。メディア、エラム、パルティア、アーリア、バクトリア、ソグディアナ、コラスミア、ドランギアナ、アラコスィア、サッタギディア、ガンダーラ、シンド、アミルギアン、スキタイ、とんがり帽子のスキタイ、バビロニア、アッシリア、アラビア、エジプト、アルメニア、カッパドキア、サルディス、イオニア、海を越えるスキタイ、スクルダ、ぺタソスを着るイオニア人、リビア人、エチオピア人、マカの人々、カリア人、・・・・・」
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★百柱の間

万国の門から入り、アパダナと反対の方向にこの百柱の間があります。その名前のとおり実際に100本の柱があって大きな空間を作っていたようです。ペルセポリスの中でアパダナに次ぐ大きな建築物だったことでしょう。

この建物はアレキサンダーによって焼かれてしまったそうです。
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★王墓

百柱の間の写真の遠方に見えているのはペルセポリスを作った王の一人アルタクセルクセス二世の墓です。王家の墓は後でご紹介するナグシェ・ロスタムにまとめてあるのですが、なぜかこの王とダリウス三世の墓は別なところに作られています。どうしてでしょうね、占いでもやっていたのでしょうか。

丘の中腹にあるこの墓に行くと、入口には鉄格子があり、鍵が掛けてあります。見学できないのかと思っていたら、おじいさんがどこからともなく現れて、ツアーガイドと何やら話をしています。このおじいさん墓守なのでしょうか、鍵を開けて中を見せてくれたのです。中には王と王妃の石棺がありました。かなり大きなものですが、その中まで覗くことはできませんでしたが、多分今となっては何もないのでしょう。
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引用文献:"PARSA PERSEPOLIS" by Werner Felix Dutz & Sylvia A. Matheson, YASSAVOLI
by eldamatravel | 2007-09-19 09:50 | 世界遺産シリーズ


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